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その他の情報ウェストポイント (ニューヨーク州) 同地域は基地であるため、通常の市とは大きく数値が異なる。高齢者が極めてわずかであり、平均年齢が極端に若くなっている他、男女比が2対1を越えるなど、基地特有の人口統計を示している。 2000年現在の国勢調査2で、この CDP は人口7,138、996世帯、及び939家族が暮らしている。人口密度は113.3/km2 (293.4/mi2) である。16.6/km2 (42.9/mi2) の平均的な密度に1,044軒の住宅が建っている。この CDP の人種的な構成は白人82.31%、アフリカン・アメリカン9.09%、先住民0.50%、アジア3.35%、太平洋諸島系0.15%、その他の人種1.64%、及び混血2.96%である。ここの人口の6.56%はヒスパニックまたはラテン系である。 996世帯のうち、75.1%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、87.8%は夫婦で生活している。4.8%は未婚の女性が世帯主であり、5.7%は家族以外の住人と同居している。5.4%は独身の居住者が住んでおり、0.0%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は3.53人であり、家庭の場合は、3.66人である。 この CDP 内の住民は21.9%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が51.2%、25歳以上44歳以下が23.0%、45歳以上64歳以下が3.8%、及び65歳以上が0.1%にわたっている。中央値年齢は21歳である。女性100人ごとに対して男性は207.3人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は259.7人である。 この CDP 内の世帯ごとの平均的な収入は56,516米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は56,364米ドルである。男性は7,302米ドルに対して女性は10,741米ドルの平均的な収入がある。この CDP の一人当たりの収入 (per capita income) は13,158米ドルである。人口の2.0%及び家族の2.0%は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の2.6%及び65歳以上の0.0%は貧困線以下の生活を送っている。 |
本多正純 慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長13年(1608年)には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。 慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。 慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。 |