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その他の情報八十年戦争 ネーデルラントではプロテスタントのカルヴァン派などが広まっていたが、カトリックのスペイン王フェリペ2世は厳しい異端審問を実施してプロテスタントを弾圧した。このためネーデルラント諸州は1568年、有力貴族オラニエ公ウィレム1世(1533 - 1584年)を先頭に、スペインに対する反乱を起こした。 共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント連邦共和国は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出し、ポルトガル(1580年からスペインと同君連合)から香料貿易を奪取して、世界の海に覇を唱えた。このため貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えることとなる。 三十年戦争でブレダはスペイン軍に2度にわたり蹂躙された。1624年 - 1625年、ロス・バルバセス候アンブロジオ・スピノラ率いるスペイン軍が侵攻し、オランニェ公マウリッツ率いるオランダ軍が守るブレダを包囲した(第三次ブレダの戦い)。有名なディエゴ・ベラスケスの名画『ブレダの開城』には、攻城戦を指揮したアンブロジオ・スピノラにブレダ守備隊の司令官であったユスティヌス・ファン・ナッサウ(オラニエ公ウィレム1世の庶子)が城門の鍵を渡してスペインに降伏する場面が描かれている。1637年、オラニエ公フレデリック・ヘンドリックによる第四次ブレダの戦いによってブレダは解放された。 |
本多正純 慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長13年(1608年)には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。 慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。 慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。 |