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その他の情報貧困線 貧困線が、どの収入水準に引かれるかは場所によって違うが、1国の中ではばらつきがあるものの、一定の範囲内に収まる。このばらつきは、場所により生活に必要な収入が違うために起きる。都市部と農村部では物価の差があり、温暖な地方と寒冷な地方では光熱費に大きな差が生じるなど、国の中でも場所により貧困線は上下する。 ほとんど全ての社会には貧困状態にある住民がいる。貧困線は社会学や経済学の指標であり、貧困状態にある住民を減らすために必要な社会政策を決定するのに有効である。貧困線以下にある住民が多い社会は、最低限の生活を送る必要があるため、経済発展が阻害される。このため、近代的な国家の目標は、社会の全ての構成員を貧困線を上回る収入を生活保障や雇用保険の失業等給付を通して、保障することにある。 貧困線を計算する基本の手法は、1人の成人が1年間に最低限必要な物の購入費用を積み立てていく方法がとられる。住環境に費やす費用が収入のもっとも大きな割合を占めることが多いことから、歴史的に経済学者は物件価格や賃貸費用の変動に注目してきた。個人の年齢や家族構成により貧困線は上下する。多くの先進国では娯楽や嗜好品なども貧困線を算出する際に加算している。これは単に衣食住が満たされる状況は、貧困状態未満であるという認識があるためである。 貧困線は、厳密な指標ではなく、貧困を計る恣意的な指標の1つでしかない。貧困線を若干上回る収入と若干下回る収入の間に大きな生活水準の差は無いためである。 |
本多正純 慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長13年(1608年)には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。 慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。 慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。 |