−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
その他の情報小ドルスス ティベリウスと最初の妻ウィプサニアとの息子。ティベリウスはリウィアとティベリウス・クラウディウス・ネロの息子であり、ウィプサニアはマルクス・ウィプサニウス・アグリッパとポンポニアの娘であるので初代皇帝アウグストゥスと直接の血縁関係はない。 紀元前11年にマルクス・アグリッパの寡婦となったユリアとの結婚のため父ティベリウスは母との離婚を強制され、さらに紀元前6年には父はドルススをローマに残しロードス島へ隠棲してしまう。紀元前2年の継母ユリアの追放後、紀元2年に帰還した父に連れられフォルム・ロマヌムで市民に紹介された。 その後ティベリウスがアウグストゥスの養子となり後継者に確定すると、ドルススもアウグストゥスの援助を受けて政治キャリアを重ねていった。このとき叔父・大ドルススの息子ゲルマニクスがティベリウスの養子となり、ドルススとは義理の兄弟となっている。さらにゲルマニクスの妹リウィッラと結婚している。 アウグストゥスが病没した紀元14年には翌年の執政官(コンスル)に指名されていた。アウグストゥスの遺言状でドルススは、第1位遺産相続人が遺産を相続できない場合に遺産を相続する第2位遺産相続人として3分の1の遺産を与えられていた。この指名は、同様に第2位遺産相続人として指名されていたゲルマニクスとその子供達とともに、ティベリウスの後をアウグストゥスが期待していたことを示している。ティベリウスが神君カエサルの神殿の前で行なった以外では唯一、アウグストゥスの追悼演説をドルススはフォルム・ロマヌムで行なっている。 アウグストゥス死後 [編集] |
本多正純 慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長13年(1608年)には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。 慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。 慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。 |