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その他の情報植生調査 陸上はそこが生物にとって生育可能である限り、ほとんどの場合に植物群落に覆われる。植物群落はまず景観としてその場の姿を決め、生産者として生物群集の生産を支えるだけでなく、構成種ごとにある程度特異的に関係する多くの生物を抱え、またその構造が他の生物にとっての生活の足場を提供する。したがって、植物群落の種構成やその構造を記録することは、植物群落の研究そのものだけでなく、その地域の自然に関する基本的な情報としても重要である。 植物群落の調査法は植物社会学において発達した。この分野では、この調査によって得られた情報に基づいて植物群落を分類、体系づけることを行う。植物群落そのものの研究では、当然ながらさまざまな方法で、多くの角度からの独自の調査法があり得るが、普通はブラウン・ブランケの方法が使われる。ここでは、主としてこれについて説明する。 植生調査は普通、コドラート法で行われる。その地域、区画の植生の特徴が最もよく出ていると思われる場所を選び、そこに正方形の枠を設置し、その内側を標本として調査を行う。状況に応じて枠の形は変わることもある。例えば険しい尾根筋で調査をする場合、枠は幅を狭く設置せざるを得ない。 枠の大きさについては、その群落を構成する種類が全部入ってしまえば一番いいのであるが、それを確かめる方法はまずない。具体的には面積を変えながら種数を数え、種数面積曲線を作り、その曲線が飽和に達した面積を取るのがよい。しかし、毎回そんなことをしていては大変なので、普通はパッと見でエイや、と決めてしまう。一応一般的な通念として、概略の見当というものがあり、日本では森林ならば大体20-25m位が適当とされる。別の見当としては群落の高さを枠の大きさとする、という目安もある。 枠を置く場所としては、その植生の特徴がよく現れたところ、ということになるが、これは言い換えれば先にその地域の植生の特徴が分かっていなければならない。実際には、外から見ても、森の中にいても、はえている樹木が大きく変われば見た目も大きく変わるから、その中でもっとも典型的そうなところを選ぶ、ということになろう。 |
本多正純 慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長13年(1608年)には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。 慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。 慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。 |