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その他の情報独立戦争 国家の支配する領土において、特定の地域の住民がその国家からの自治権獲得やその拡大を超えて、国家からの分離・独立を要求する運動を起こす場合、その動機にはさまざまな要素が考えられる。 複数民族国家における民族、宗教、文化の違いから独立を要求する場合もあれば、国内の地域間での経済格差の存在や、優良資源にめぐまれた地域が独立をめざすなど、経済的な要因から独立を要求する場合、さらに本国(中央政府や植民地宗主国など)の圧政を理由として独立運動が起きる場合もある。一般に独立運動は、ナショナリズムの高揚とともに、これらの要因のうちの複数が絡まりあいながら進行する。 独立運動は、最初期には合法的な手段による独立達成をめざす。運動体の結成、支持者の獲得とその拡大、デモなどの大衆動員がそれにあたる。しかし、国家と独立運動団体の利害の調整が困難な場合、合法的な枠内での運動が成功する可能性がきわめて低い場合、非合法的な手段、さらには武力闘争によって、独立の達成をめざすことになる。 歴史上、独立戦争に敗れた独立運動は数知れない。独立運動の側に武力闘争への支持者が少なく、抵抗運動を継続する武装勢力が少数であれば、国家や一般市民からはテロリスト、ゲリラとしか認識されず、武力闘争が失敗した場合は、政府はこれを「内乱」、あるいは「テロリズム」として法的に処理する。 独立運動団体が、戦争を遂行、継続するためには、運動団体の組織化、武器の安定的調達などの必要があり、それ以外にも、本国(植民地宗主国など)との距離の遠近という地理的要因、国内・国外からの世論の支持といった環境的要因などが必要である。 独立戦争は、最終的には、交戦相手である国家との交渉による独立の承認、諸外国による独立国の承認によって終結する。 |
本多正純 慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長13年(1608年)には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。 慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。 慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。 |